荒野を夢見たことはありますか?
耕作地を大きくカーブした道の向こうには、
そこにはただただ「コウヤ」が広がっているようでした。それは西部劇で見るような広大にして荒涼とした空間ではありませんでしたが、荒野にして広野と呼ぶには十分に思えます。
どうやら昔は田畑だったのではあるまいか?
と、私は独りごちました。タバコを吸うことはありませんが、タバコをふかしたい気分に襲われます。もちろん気分でもふかしただけで、肺には煙を入れないチキンです。
荒野を前にして味わう、この孤独感がたまらないのかもしれません。私は寂しがりなので本物の独りぼっちはゴメンなのですが、色々な気分を疑似体験してみるのは、映画や小説の中に入り込んでしまったような高揚感に襲われて、それはそれで好きなのです。
荒野を夢見るとは
そこは恐らく、打ち捨てられた耕作地だったのでしょう。
大地は生きていたとしても、そこに結実させる人はもういない土地が私の眼前には広がっているのでした。
もしかすると数年後には、自然を侵食する漆黒のソーラーパネルが怨嗟のように増殖しているかもしれませんので、今だけの荒野なのかもしれません。
私が荒野を夢見るのは、そこが人類の叡智の先端だと夢想しているからです。その先は人外の土地なのです(と夢想しておきます)。もちろんそれは私の脳内のみに存在する荒野観なのですが、それがある意味私にとってのロマンなのでした。
そしてここが今、人類と人外の境界だとして、その先が以前は耕作地だったとしたならば、そこはある意味廃墟です。人間の創造物が自然に戻る工程。荒野。私はそこに惹かれているのかもしれません。
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記憶にあるはずが無い懐かしい風景を
あてもなくドライブする目的があるとするならば
それは、夏かしい風景を探しているからなのかもしれません。私の記憶にあるはずのない風景。それでも心にはある風景。
記憶にない風景とは、忘れているということではありません。いままで一度も経験したことが無いであろうということです。
それでも心にはあるのです。あの夏かしい懐かしい風景は。おそらく口伝を聞くことで、もしくは小説や映画を観ることで、あるいは前世や来世の記憶なのかもしれません。
兎に角、私は、それらの風景を探すためにドライブに出かけるのだと思います。
遠方で感じる故郷
に出会うことが多々あります。
東北に住んでいる私が関西に旅した時に、懐かしく感じる風景に出逢えるのは、同じ日本だからなのでしょうか?
だとしたならば、そのなつかしさは遍在しているということなのでしょう。
先日、映画『ドライブ・マイ・カー』を観ました。
静かながらも、心がざわつく感じを受けました。それでもエンディングに向けて、車窓の風景の流れに合わせて、開放感や浮遊感を味わいました。
あれは秋や冬の色を感じる透明な映像だったのですが、夏を探してドライブに行きたくなったのでした。
-PENTAX 645Nii [film : FUJIFILM NEOPAN 100 ACROS]
-PENTAX 645Nii [film : FUJIFILM NEOPAN 100 ACROS]
-PENTAX 645Nii [film : ILFORD HP5+]
-PENTAX 645Nii [film : ILFORD HP5+]
-PENTAX 645Nii [film : ILFORD HP5+]
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